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南相馬市への物資支援

南相馬市への物資支援


 先日、私が頻繁にお世話になっている行くカフェ、エスプレッサメンテ・イリー(espressamente illy) グランデ新浦安トレードポート店、の店長、糸井さんより、500mlのミネラルウォーター、24本入り、3箱を被災地支援に、とのことでご提供いただきました。

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 南相馬市鹿島区大内地区の地区長と電話で話をさせて頂いた際に、水は出てきているけれど、妊婦さんは飲まずに、親類縁者などから送ってもらったり、買いに行って飲んでいる、とのことを伺いました。

 そこで、お預かりしたミネラルウォーターを宅配便でお送りし、翌日には到着し、すぐに必要とされていらっしゃるご家庭に配っていただいた旨、電話をいただきました。

 必要物資は、近隣のスーパーが再開し始めており、喫緊に必要なものは充足してきている、とのことでした。

 そのほかにも、現地の状況を伺いましたので、それは次のブログでお知らせします。


 
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テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

GWの南相馬市での活動報告 5 3日目 2011年5月5日

GWの南相馬市での活動報告 5 3日目 2011年5月5日

今日も昨夜コンビニで買った弁当で朝食を摂り、お昼用におにぎりやパンを持って出発しました。

本日は、物資1台、力仕事2台です。

私は、昨日に引き続き、畑の掃除です。

前日や今日の午前中は、ご家族とお話をする機会がなく、また、少し離れたところに畑がありましたので、お互いに顔を合わせることもありませんでした。

昼食時に、ご家族の皆様と近い所に座って食べていると、ご主人がいらっしゃり、話をしてくださいました。

ボランティアセンターが人を派遣してくれることは知っていはいたが、自分たちの目が届かないところで、こちらの思うように活動してもらえるのかどうか不安だったことや、物資を持ってきたボランティアもいたが、突然に「物資がありますよ」と言われても、何が必要かを考えることもできずにいた、とのことでした。加えて、写真を撮ってまわる野次馬が、一時期はご自宅の前の道路に渋滞するほど集まっていた、とのことでした。

物資をお届けしていた私としては、「やきそば、らーめん、うどん、おかゆ、おでん、...がありますよ」とお伝えしても、確かに良く分からないのだな、と思いました。ご主人がおっしゃるには、リストや、現物が見えるサンプルのようなものがあると分かりやすい、とのことでしたので、次回に向けた良い示唆を頂けたと思いました。

*****

午後2時頃まで活動し、南相馬市ボランティアセンターへ、紙コップやふた付きプラスチック製食器を届けました。

3台とも、各々の活動を終え、南相馬市役所に集合しました。そこで畑の掃除中に見つけた写真などを届けました。

活動中にも下のような張り紙を見つけ、自衛隊が非常に大きな役割を果たしており、地元の方々は感謝している様子が分かりました。
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また市役所には、下のような写真が掲示されていました。
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市役所の前に、大きな段ボールで作ったメッセージボードを持った方がいらっしゃいました。話を伺うと、原発から20キロ圏内に住んでいたペットを飼っていた方から、住所、名前、電話番号を聞き、市長に対応策を取るように陳情するとのことでした。見せて頂いたノートには、びっしりとペットを飼っていた方の情報が書かれていました。
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*****

市役所で他のグループと合流した際に、物資班だった者から、「地区長さんにお会いしました」との話を聞きました。前回、南相馬を日帰りで訪れた際に、最後に物資を託させていただいた鹿島区大内地区の区長さんです。

前回から今回の間に、必要な物資は何か、現地はどのような状況かを伺うために、何度も電話をしていたのですが、呼び出し音は鳴るものの、一度もつながることがありませんでした。もしかしたら、避難されたのではないか、とも思っていました。

今回の滞在中に地区長のご自宅を訪問させていただくつもりだったのですが、活動を終えて戻ると疲れてしまっており、また夜で暗くなっているために迷ってしまう可能性があり、伺えずにおりました。

しかし、ご在宅であることを知り、南相馬市役所から2台を先発させ、私は地区長のご自宅を訪れました。

地区長はご不在でしたが、奥様から話を伺い、電話線が切れていて復旧していない、とのことでした。電話線が断線しているのに、掛けた側には呼び出し音が鳴っているのは不思議に思いました。携帯電話は通話可能なので、そちらの番号を教えていただきました。

奥様のお話ですと、大内地区に戻ってきている被災された方々も多くなっているとのことでした。必要なものがあれば浦安からお送りすること、夏休みになったらまた訪問させて頂きたいことをお伝えし、出発しました。

前回も一緒に南相馬市を訪れた卒業生は、「道路に出ているがれきが増えている」と言っていました。がれきを出す人が戻っている、ということです。

しかし、がれきを撤去するために、自衛隊も業者も入っていないようです。

*****

後日、電話を差し上げたところ、スーパーが徐々に開店し、必要品は揃えられるようになったことや、土日で150人のボランティアがボランティアセンターを通じて活動をしていた、とのお話を伺いました。

やっとボランティアも入るようになったか、という思いです。

*****

東北道で他の2台と合流し、1台は新幹線で帰る卒業生を乗せ、郡山で別れました。私は卒業生を日立まで送り、浦安へ向かいました。もう1台は二本松インターチェンジから浦安まで直行し、浦安駅の最終電車に今回参加した者を送りました。

けがや健康を害することなく、無事に今回の活動を終了しました。

*****

6月11日に、今回のプロジェクトに関わった後方支援、および現地活動組で集まることができる者が私の自宅に集まり、今回の振り返りと、次回へ向けた打ち合わせをしました。

次回は夏休みの8月中旬を考えておりますが、その時期にどのようになっているのかまったく分からないために、地区長と連絡を密に取りながら、活動時期や内容を決めて行きたいと思います。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

GWの南相馬市での活動報告 4 2日目 2011年5月4日

GWの南相馬市での活動報告 4 2日目 2011年5月4日


朝食は前日に買ってあったコンビニ弁当を食べ、昼食用におにぎりを持って、出発しました。

今日は、物資2台、力仕事1台に分かれました。私は、力仕事班です。

片づけなどで人手を必要とされていらっしゃる方を探し、家人がいらして、作業をしていらっしゃるような場所を探します。


途中では、道路標識が倒れ、
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二階部分は残り、一階部分が破壊された家や…
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「撤去してください」と自宅の壁に書かれていた家もありました。
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道路もアスファルトの下がえぐり取られています。
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ここは、前回来たときには行方不明者の捜索作業が行われていたところです。がれきや車が撤去され、更地になっていました。
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ここのお宅の畑を掃除させていただくことになりました。
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お宅の前には廃棄するものが積まれ、奥に薄茶色に見える袋には、家族・親族の方が集めた泥が大量に入っています。自衛隊が処分するために回収しに来るそうです。
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ご自宅の中は、3月のままのカレンダーや、壁材がはがれ、道路から高いところにあるにも関わらず、津波が来た高さが分かります。
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一見、屋根が流れ込んできたのかと思うこの光景は、津波によって下から持ち上げられてしまった床材です。
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畑には、木材やかわら、壁に使う崩れてしまった石膏ボードが散乱しています。
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鞄や洋服、写真、証明書、手紙、香典袋なども埋まっていました。
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写真などは、この日はこのお宅の方にお預けし、翌日は市役所へ届けました。

崩れた石膏ボードや枕に使うビーズなど、細かなものを取るのは難しいので、ふるいを購入し、翌日、改めて畑の掃除をさせていただきました。
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塩害は深刻で、土の表面には塩が乾燥して白くなっている箇所が多くありました。
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***********************

物資班は、お配りするために各地を回っていました。
途中、原型をとどめていない車や、その後ろは二階部分には被害がないけれど、一階部分、特に写真右側が大きく損傷している家を見つけました。
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この地域は、一階部分が壊れている建物が多かったようです。
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まだまだ壊れた建物の撤去が手つかずの地域もありました。
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撤去したものの置き場は、とても高く積み上げられています。
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物資班も波消しブロックが打ち上げられた畑を見かけました。
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物資を必要としていらっしゃる被災された方々に、お渡しすることができました。
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物資班の1台は、あるお宅で話を伺っていると、「片づけを手伝ってもらえると助かる」という話が隣り合った2軒からあり、物資配布を中止し、活動を片づけに変更しました。

前日の振り返りで、物資をお渡しするだけが支援ではなく、じっくりと被災された方々と対話をしよう、という方針でいたので、何の迷いもなく物資配布作業は中止し、お手伝いをすることにしたそうです。

一軒では、濡れた畳の運びだしです。
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作業前の様子です。
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大きなものを運び出します。
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次に泥出しです。
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作業完了です。
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物資もお金も厳しい中、被災された方が、お昼を買ってきて下さいました。ありがたく、頂戴しました。
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南相馬道の駅に戻り、テントを張り、昨夜と同じ中華料理店に行き、明日の食事を買い、お風呂に行った後は、振り返りをし、明日に備えました。

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GWの南相馬市での活動報告 3 1日目 2011年5月3日

GWの南相馬市での活動報告 3 1日目 2011年5月3日


浦安から南相馬市に到着したのは、朝の6時頃でした。拠点にする予定の「南相馬道の駅」に向かいました。道の駅に近づくにつれて、早朝にも関わらず、非常に多くの車が道の駅の前にある信号で、曲がるのを待っています。道の駅の入り口から、多くの人が並んでいます。道の駅の駐車場は満車で、通りをはさんだ向かい側の空き地へ車を入れました。

 事前の情報で、6日に物資の配布が行われることを知ってはいましたが、文字通り「みる見る間」に人の列が長くなっていきます。公的機関のホームページには、「食料などの物資は足りています」と書かれておりましたが、この人の列を見て、実際には物資を必要としている人は震災後2か月近く経っても、まだまだ大勢いるのだ、と実感する光景でした。

 草むらで車を止め、2台に積んできた荷物を3台に分ける作業を始めようとしました。
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 ふと並んでいる方々の方を見ると、並んでいる人が我々の方を見ています。
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 物資を求めて並んでいる人たちの目の前に、焼きそばだの、らーめんだのを屋根に満載した車があるのです。見られて当然です。

「もし物資を求められたらお渡ししないわけにはいかなくなる。しかし、この大勢の方のニーズを満たす量を持ってはいない」

 我々は、行政サービスや、家から出ることが困難な方々を援助の対象と考えていましたので、ここで物資をお渡しすると、物資を求めて並ぶことができない方々、移動手段がない方々へ物資をお届けすることができなってしまいます。

 申し訳なく思いながら、場所を移動しました。

 この日は、ある団体が野菜などを配る活動をすることになっており、人の列はそれを待つ人々だった、と後日知りました。また、南相馬道の駅に集まった方々のうち、800人ほどが物資を受け取って帰宅された、とのことでした。

南相馬道の駅を離れ、移動した場所は被災地で、周りに何もない広くなった場所です。おそらくこの地にも、津波の前には住んでいらっしゃった方がいたはずです。そのようなことを考えながら、ブルーシートを広げ、仕分けをしました。
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 仕分け作業をしていると、自衛官が近づいてきます。「おはようございます」とあいさつをすると、「おはようございます。今日、ここで捜索をする予定になっています。どの位の時間がかかりそうですか?」とのことでしたので、「最大でも1時間程度です」と答えました。

 仕分け作業をしている間にも、自衛隊車両が続々と集まってきます。

 震災が起こってから約2か月。まだ行方不明者の捜索が続いているのです。

 仕分け作業を終えると、その場を離れ、近くの川沿いに車を止め、朝食を摂りました。

 そこで話題になったのは、宿泊場所です。毎朝、早朝から今日のような人数の被災された方々が集まった場合、物資を積んだ我々の車を見てどう思われるだろうか。物資を求めて並んでいる方々の横を抜けて出発することが許されるのだろうか。さらには、もし物資を求める方々が我々のところに集まってきたら、どのように対処できるのだろうか。

そのような心配があったため、宿泊場所を道の駅から川沿いの朝食を摂っている場所に変更してはどうだろうか、というような話をしていました。

 昼間に道の駅に電話をし、状況を伺うと、「今日は配布があったので人々が集まったが、普段はそのようなことはない」とのお話しでした。そのため、宿泊場所は当初の予定通り、道の駅にすることにしました。

 3台に物資を分け、南相馬市の行くことが許される南限(原発20キロ圏境)の太田川河口付近から新田川までの県道260号線沿い(南部)、新田川から南相馬市北限までの県道260号線・県道74号線沿い(中部)、相馬市南部の磯部地区、岩子地区の県道74号線沿い(北部)に分かれ、物資をお配りする活動を始めました。

 私は明海大学の卒業生1名と共に、南部を担当することになりました。まずは南限を目指します。

道中には、津波で流されてきた漁船が横たわっています。
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原発から20キロ圏の境に到着しました。
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南限からほど近いところに工場の事務所があり、窓からこちらを見ている方がいました。

「会社の人は個人と違うだろう」という思いも無くはありませんでしたが、「被災された人」には変わりありません。

話を伺うと、その工場近辺は海面からずいぶんの高さがある土地にも関わらず、両隣の事務所や工場は津波の被害に遭ったが、偶然にもその工場だけは被害がなく、以来、交代で待機しているとのことでした。その日は約10名が事務所で待機しているが、食べ物が足りないとのことでした。関係者の子どももいました。そこが今回、初めて物資をお渡しした方となりました。

北上する途中、スクラップヤードに車が山積みになっています。おそらく、今回の震災で被害を受けた車でしょう。
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そこを見ている夫婦がいらっしゃいました。車が2台あり、1台は千葉県内のナンバーです。その夫婦のお子様が、千葉から物資を持っていらしたそうで、被災地を一緒に見て回っているところだったそうです。

畑・田んぼだっただろうところには、ゴミや木材が散乱し、また、まるで消波ブロックを育てているかのように、大量に消波ブロックが散乱していました。
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タンクローリーも運転席部分が破壊されています。
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また、高圧電線の鉄塔が折れ曲がっていました。ゴジラが倒したかのような様相です。しかも1つだけではなく、少し高い位置にある鉄塔も曲がっていました。
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道路が寸断されています。
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ひどい状況ですが、花がたくましく咲いていました。
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この近くで、数件の住宅があった場所に残った基礎部分に座っていらっしゃる夫婦と思われる方の姿を見つけ、卒業生が話を伺いに走っていきました。

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そのご夫婦は、被災された方ではなく、その基礎しか残っていない家にお嬢様が嫁いできたけれど、行方不明なので探しに来た方でした。

「私たちは被災者じゃないし、大丈夫だから、他の方々の所に行ってあげてください。ありがとうございます。頑張ってくださいね」と言われたそうです。

戻ってきた学生は、「苦しいはずなのに、悲しいはずなのに、なんで微笑みかけてくれたり、なんで優しい言葉を掛けてくれることができるのだろう... なんでだろう...」と悩んでいました。




下の写真は、家業で花の栽培と販売をしている方のご家族です。今回、初めて学齢期の人に出会いました。文具、お菓子、他にも必要な物資をお渡ししました。
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別なお宅では、壁の色が変わっているところまで水が来たそうです。倉庫の中に入れていた業務用の重い冷蔵庫、冷凍庫が簡単に流出したとのことでした。
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このお宅では、玄関前の敷石の色が変わっているところまで水が来たそうです。ギリギリ、難を逃れたとのことでした。
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被災地を色で表現すると、「茶色」や「灰色」といったイメージになるのですが、その中を鮮やかな赤のチューリップを持って歩いている女性がいらっしゃいました。早速声をお掛けして、話を伺うと、少し離れたところにあった自宅が流され、何かあれば、と思って歩いていたそうです。

現在は避難所ではなく、何もない小さな部屋に仮住まいしていらっしゃるとのことで、食料などもなく、困っていらっしゃるようでした。歩いていらっしゃったので、あまり重くならないように、かさばらないように必要なものをショッピング袋に入れておりましたら、「主人がいま車で家の方を見に行っていて、もうすぐ戻ってくるはず」とおっしゃっていたので、重いものやかさばるものも含めてお渡ししました。

ご主人が戻ってきて、あいさつをしました。ご主人は、「誰だろう?なんだろう?」と思っていらっしゃるような表情をされていました。我々がなぜここにいて、何をしているのか、なぜ奥様と話をしているのかなど、事情をご存じではないので当然でしょう。

私が「支援金を託して下さった方への報告もあるので、よろしければ写真を1枚撮らせて頂けないでしょうか」とお願いすると、「じゃあ、家があったところで撮りましょう」ということになり、卒業生がご夫婦の車に乗り、私が後を就いていきました。

ご自宅があった場所に到着すると、ご主人が...
「ここに倉庫があってね」
「ここに門塀があってね、敷石が玄関まで続いていてね」
「こっちは畑があってね」
「あそこには庭があって、松の木があってね」
...と、元のご自宅の配置などを教えてくださいました。

いまは、玄関までの敷石と家の基礎部分が残っているだけです。
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地震のときは奥様は在宅中で、大きな地震があったので、「逃げなければ」とすぐに思ったそうです。周辺の住民に「逃げよう!逃げたほうがいいよ!」と呼びかけながら回ったそうです。しかし...
「大丈夫、大丈夫、ここまで水はこないよ」
...と言う方がほとんどだったそうです。

奥様は、万が一のことを考え、すぐに車で高台へ避難されました。

そして、ご自宅周辺の家々はすべて流され、住民の方も流されてしまったようです。

ご主人は勤務先から自宅に戻るのに、通常かかる時間の何倍もかかって戻ると、ヘッドライトに照らされる風景は、平地ばかり。基礎部分が残った家ばかり。

ご主人は、奥様の身を案じ、避難所を回り、その後にご実家に戻られたら、奥様の車があり、そこで奥様の無事を知ったそうです。

驚いたことに、海沿いの人は難を逃れた方が多く、少し内陸に入った地区の方々が亡くなったり、行方不明になったそうです。海沿いの方は、すごい勢いで海水が引いていくのを見て、「これは大きい津波が来る!逃げなければ!」と思って、周りに知らせながら避難したそうです。

一方、少し内陸に住む方々には、海の状態の情報が届かず、また、海から離れていたために、「ここまではこないだろう」という思いがあったようです。


ご夫婦は...

「家の通り向こうには、おじいさん、おばあさん、息子夫婦、孫が住んでいたんだけどね、生き残ったのは息子一人なんだ」

「隣に住んでいた小さな女の子は、うちの前の道が通学路で、ランドセルを背負って『いってきまーす』と言っていて、とってもかわいい子だったんだ。でも行方不明なんだ」

そうおっしゃると、奥様はこらえきれず、自宅の敷地や家があった基礎部分を歩き、「ここは~の部屋だったのよね...」とおっしゃりながら、涙を流されていらっしゃいました。

物資をお渡しし、「お大事になさってください」と両手で握手をさせていただきました。

それまで気丈にお話し下さっていたご主人も、我慢なさっていた気持ちや感情が表出したようで、涙を流していらっしゃいました。

奥様は「来ていただき、物資を頂いたことは一生忘れません」をおっしゃって下さいました。

車に戻ると、一緒に行動していた卒業生も涙を流していました。

*****

話を伺う。それだけでも、大変な被害に遭われた方々の不安や心配、悩みを少しでも肯定的な方向へ向けていただくことができます。

タイミングを間違わなければ、握手などの身体接触は、相手に対し、大きな安心感を与えることもあります。今回は、それが良い方向へ出たようです。

*****



夕方になり、中部を担当していたグループから連絡があり、積み込んだ物資がほとんど無くなったので、分けて欲しい、とのことでしたので、合流しました。しかし、天候が悪くて暗くなってきたことと、車中ではほぼ寝ずに移動してきた疲れとがあったので、午後4時前には道の駅に到着しました。

テントを張り、夕食を摂りに出かけました。近くの中華屋さんです。

「地元でお金をつかう」 これも、大切な支援だと考えます。地元で開けているお店は、少しでも早く復興しようと頑張っているはずです。そこでお金をつかえば、それが地域で回っていき、少しでも活性化するかもしれません。

*****

私は「振り返り (debriefing session)」を大切にしています。

「振り返り」とは、一言でいうと、3つのWです。
What happened? (何をしたの?何が起きたの?、客観的事実)、
So what? (そのときに、どのような感じを受けたの?どのようにしたの?なぜしたの?何か気づきはあったの?
Now what? (その気づきや感覚をどのように次に活かすの?)

この振り返りがなければ、活動は活動、日常生活は日常生活、と別々に切り離されたものになってしまいます。活動で気づいたこと、感じたことを日常生活へリンクさせるための橋渡し、それが振り返りです。

*****

毎晩、全員で集まって振り返りを行います。しかし、この日は私は福島駅まで、夜に到着する参加者を迎えに行くために、みんなで集まっての振り返りができません。そこで、夕食のときに、同じテーブルだった参加者と振り返りらしきものをして、テントに戻ってからの全体的な振り返りは、私の授業で行くキャンプに毎回スタッフとして参加してくれている卒業生に任せることにしました。

下が、振り返りの様子です。
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この振り返りの中で、南部担当のグループと中部担当のグループで、訪問したご家庭数、お配りした物資量があまりにも違うことに気づきました。南部グループの訪問数やお配りした量が少なく、中部グループの訪問数やお配りした物資量が多かったのです。

なぜそのようなことになったのか?

話し合いをしている中で、南部グループは被災された方々のお話を伺うのに多くの時間をつかっていたために、訪問できた件数も、お配りできた物資量も少なく、一方、中部グループは、一人でも多くの方に物資をお渡しできるように、一件当たりに費やす時間を少なくしていたことが分かりました。

確かに、これまでに行ったいわき市や前回の南相馬市は日帰りだったために、ともかく早く一人でも多くの方に物資をお渡しし、持ち帰る物資がないように、と活動していました。中部グループの一人は、日帰りでの南相馬市での活動をしていたから、同じようにしていたのだと思います。

話題として、我々が今回南相馬市を訪れている目的とはなんだろうか、ということが挙がりました。

これまでの活動では、日帰りという時間的制約がある中でしたので、被災された方々のお話を伺っていると、支援金をお預かりして物資を調達し、それを届けるために活動しているのに、その物資が残ってしまう、というプレッシャーを感じていました。

今回は日帰りではなく、3日間も活動時間があり、かつ、人数も9名、車も3台あります。それを考えると、ただ物資をお配りするだけだと、「配達人」の意味しかなくなってしまうのではなかろうか。

第一義的な目的としては、物資をお渡しする、ということで計画し、その計画に賛同してくれた人々が関わってくれました。しかし、実際に現地で活動すると、当初の目的ももちろん達成する必要はありますが、被災された方々が望んでいること、また、被災された方々の苦しみ、悩みを少しでも伺うことで、気持ちが少しでも楽になっていただくこと、そういった活動も大切なのではないか、ということになり、翌日以降は、物資をお配りする際には、何気ない話から少しずつ話をしていき、悩みや嘆き、悲しみ、そういったこともお聴きするようにしよう、ということになりました。

この振り返りによって、翌日の動きが変わりました。




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ジャンル : 福祉・ボランティア

義援金と支援金

義援金と支援金

活動報告もアップしなければならないと思っておりますが、義援金、支援金について、募金について、少し書かせていただきます。

私自身、以前、皆様からお預かりするお心を「義援金」と呼称しておりましたが、
「義援金」は被災地、被災された方々を直接的に支援するためのお金、
「支援金」は被災地、被災された方々を支援する方の活動を支援するためのお金、
という違いがあります。

これまで混同していましたが、これまで皆様からお預かりしたのは「支援金」ということになります。

「義援金」で有名なのは、中央募金会(赤い羽根等を実施している団体)や日本赤十字社が募っているものです。ここへ集められた義援金は、国の「義援金配分割合決定委員会」が各都道県への配分割合を決定し、都道県の「義援金配分委員会」によって、被災された方への金額が決められます。

義援金の第1次配分(4月8日決定)は、
死者・行方不明者は1人 当たり35万円、
家屋全壊、全焼は1戸当たり35万円、
半壊、半焼は18万円、
政府指示で避難(屋内退避含む)した世帯は家屋全壊とみなし35万円、
重傷者(約100人)や床上浸水(約2800戸)、床下浸水(約1600戸)は今回は対象外

第2次配分はつい先ほど(6月6日)に決定し、
死者や行方不明者の人数などの比率に応じて被災した15の都道県に分配し、けがをした人などへの具体的な配分基準はそれぞれの都道県が決めて被災者に届ける(NHK)

とのことです。

これとは別に、東京電力から福島第一原発事故のために避難や屋内退避の約5万世帯に対し、当面の生活費として一世帯当たり100万円、単身者には75万円を仮払いをしています。

義援金については、行政と同じで「公平性」が重要視されているために、状況の把握から始まり、他の地域の状況と比較しながら、程度に応じて一律に現金支給するというもので、被災された方々の手に届くまで非常に時間がかかります。また、本日の第2次配分は、すべて都道県に丸投げしてしまっており、国としての方針がまったく見えず、丸投げされた都道県も、「自分たちで基準を決めろ」と言われて押し付けられても、他の都道県と歩調を合わせながらせざるを得なくなるでしょう。


一方、支援金は現地で直接支援をする方々を支援するためのお金で、「公平性」という観点から見れば公平ではない場合が多くなるとは思いますが、また、現金をお渡しするわけではありませんが、すぐに被災された方々のお役に立てるように使われるものです。


決して、「義援金が悪い」ということを言っているのではなく、「こんなに時間が掛かり、使われ方もお役所的なもの」とは思っていなかった方が多いのではないでしょうか。


4月に栃木の大学に近いセブンイレブンで、「義援金は(略)被災された県へ直接お届けする予定です」と書かれた貼りだしがありました。
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先日、浦安のセブンイレブンにも、「被災された各県と長野県栄村へ直接お届けいたしました」とあり、当初の受付期間を延長し、5月末まで受け付ける、とのことでした。
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また、昨日の朝日新聞(http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106050187.html)にも、「被災地へ「ふるさと納税」急増中 既に09年度の90倍」とあります。

「ふるさと納税は自分の故郷や応援したい都道府県・市町村に寄付をすると、所得税と翌年度の個人住民税から税額控除される制度」(朝日新聞)

「3県のまとめによると、3月11日から5月末までの寄付金の合計額は、岩手県7455万円、宮城県1億1894万円、福島県1億1561万円。各県の09年度の年間額は岩手県55万円、宮城県81万円、福島県216万円で、増え方は桁違い」(朝日新聞)

これらは、時間が掛かる中央募金会や日本赤十字社より、すぐに現地で使ってもらえるような支援の方法が良い、との認識が高まっているからではないか、と考えています。

知名度もネットワークも他団体と比べ、桁違いに高いレベルにある中央募金会や日本赤十字社には、他団体とは桁違いに大きい金額です。

中央募金会には、6月6日現在、31,482,407,175円
日本赤十字社には6月2日現在、220,192,635,864円、
合わせると、2516億7503万3039円です。

これに対し、義援金の送金は中央募金会と日本赤十字社が合同でしており、6月3日現在、822億6,143万円です。

知名度があり、ネットワークも全国規模であり、影響力がある両団体です。しかし、組織が大きくなり、金額が大きくなると、動きも遅くなってしまうようです。


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